記事番号: 1-1103
公開日 2014年08月26日
慶応2年、八幡浜で生まれた忠八は、子供の頃から探究心の強い少年でした。
貧しかった少年時代、自分で考案した“忠八凧”を売っては学費の足しにしていたそうです。
やがて成人した彼はある時、カラスの巧みな翼さばきを見て“空を飛ぶ”法則を発見、研究を重ねた末、船のスクリューにヒントを得たプロペラ、滑走用の3つの車輪、聴診器のゴム管を細かく切り動力とした、最初の模型飛行器“烏型模型飛行器”を完成させました。
明治24年4月29日、忠八25歳の春、丸亀練兵場で行われた飛行実験で、聴診器のゴムを動力にわずか10mではありましたが見事に“空を飛ぶ”実験に成功、それはアメリカでライト兄弟が飛行実験に成功する12年前、現代の飛行原理へとつながる動力飛行機が、日本で初めて空を飛んだ瞬間でした。
彼はまた人を乗せて飛ぶため、大きさ約2mの複葉機“玉虫型模型飛行器”も作りましたが、当時彼の夢を理解し、援助しようという人もなく、自ら資金を作り研究再開の見通しがたった矢先、ライト兄弟の有人飛行実験成功を知り、製作中の飛行機をハンマーで破壊。以後飛行機の研究から一切身を引きました。
(注)文面中、飛行“器”とあるのは、忠八自ら命名した“器”であるため、自作機の紹介においては“機”でなく、あえて“器”を使用しております。
(奥)玉虫型模型飛行器
(手前)烏型模型飛行器
略年譜
西暦 | 年号 | 年齢 | 略年譜 |
1783年 | 天明3年 | モンゴルフィエ兄弟(仏)、熱気球による飛行実験に成功。 | |
1866年 | 慶応2年 | 0 | 慶応2年6月9日、愛媛県八幡浜市矢野町五丁目に生まれる。(旧 八幡浜浦矢野町44番地) |
1871年 | 明治4年 | 5 | 8月18日、ペノー(仏)がゴム動力模型飛行機による飛行実験に成功。 |
1877年 | 10年 | 11 | 西南の役が起こる。 |
1878年 | 11年 | 12 | 父幸蔵病死。忠八は町の雑貨店や印刷所の文選工として働く。 |
1880年 | 13年 | 14 | 北宇和群明治村字松丸で薬屋を開業の伯父の家で働き、薬学の基礎を学ぶ。 |
1881年 | 14年 | 15 | 三瀬万年に国漢を、野田青石に南画を学び、学資を得るため10種類の凧を作って売る。 “忠八ダコ"と呼ばれ人気を呼ぶ。 |
1887年 | 20年 | 21 | 香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に看護卒として入隊する。 |
1889年 | 22年 | 23 | 4月、上等兵に進級。11月9日、秋季機動演習の帰途、香川県仲多度郡十郷村の樅の木峠で昼食をとりながらカラスの群れが飛ぶのを見て航空力学の原理を発見し、発明のヒントを得る。 |
1891年 | 24年 | 25 | 4月29日夕、丸亀練兵場で“烏型模型飛行器"(ゴムを動力とし、プロペラは4枚羽根)の飛翔実験に成功。第1回目に5間余(10m)の距離を飛ぶ。これは動力による人工翼が空中を飛行した 日本最初 のできごとであった。 6月20日、松山出身の深見寿世と結婚。 オットー・リリエンタール(独)、グライダーによる飛行実験に成功。 |
1892年 | 25年 | 26 | 人間の搭乗できる人力飛行機の構想を練り、玉虫から学んだ原理に基づき設計し、 複葉の“玉虫型飛行器"の作製に着手する。 |
1893年 | 26年 | 27 | 10月5日、“玉虫型飛行器"を完成。12月、一等調剤手(曹長) に進級、松山衛戍病院に転勤する。 機体を解体して松山に運ぶ。 |
1894年 | 27年 | 28 | 日清戦争が起こり、混成旅団第一野戦病院付として従軍。通信・偵察等に飛行機の必要を痛感し設計図を作成、8月19日、上司を通して大島混成旅団長あてに上申書を提出したが却下される。 初秋の頃赤痢にかかり、10月下旬内地後送となり広島の予備病院で療養、全快後、当病院に勤務する。 |
1896年 | 29年 | 30 | 8月ころ大島将軍に直接面会し、飛行機の採用ならびに専門家による研究で完成するよう願い出たが再び却下される。 |
1898年 | 31年 | 32 | 4月、軍籍を離れ、5月、大阪に出て大日本製薬会社(月給15円)に入社、薬業に専念し品質のよい薬品の製造に心を注ぐ。 のちに大阪製薬(株)を設立、社長に就任。 |
1901年 | 34年 | 35 | 夏、京都府八幡町に自宅を建て大阪より転居。 |
1902年 | 35年 | 36 | 八幡町で旧精米所を買い入れ、石油発動機つき飛行機の設計に取り組む。 |
1903年 | 36年 | 37 | アメリカのライト兄弟の有人飛行実験成功を聞き男泣きに泣く。独力完成を断念。 |
1904年 | 37年 | 38 | 日露戦争が起こる。 |
1915年 | 大正4年 | 49 | 3月10日に発願して航空機殉難者の霊を屋内に祭る。 |
1919年 | 8年 | 53 | 11月、白川義則将軍の手を通じ、忠八の発見が合理的な天才的考案であることが専門家によって証明される。 |
1925年 | 14年 | 59 | 9月17日、香川県樅の木峠忠八顕彰記念碑が建立され、逓信大臣より表彰状を受ける。 この年、“飛行神社"の工事に着手。 |
1926年 | 15年 | 60 | 3月9日、八幡浜町より歓迎祝宴を受ける。 5月25日、帝国飛行協会より有功賞を受賞。 この年、八幡浜町大平に「斐光園」の記念碑建立。 |
1927年 | 昭和2年 | 61 | 12月、勳六等に叙せられ瑞宝章を受ける。 |
1928年 | 3年 | 62 | この年、斐光園に「合理飛機濫觴」・「斐光園誌」の碑を建立。 |
1931年 | 6年 | 65 | この年、朝鮮京城府竜山孝昌園(上申書提出のゆかりの地)に「合理飛行機発祥之地」の碑を建立。 |
1932年 | 7年 | 66 | 2月、京城・奉天・大連・青島・上海などを次男(顕次郎)と旅行する。 この年、飛行神社完成。 |
1936年 | 11年 | 70 | 2月26日(2・26事件の日)、京大病院で開腹手術し癌と判明、4月8日死去。 |
1937年 | 12年 | 小学校の教科書に「飛行機の発達」と題して玉虫飛行器設計の話が載る。 |
飛行記念大会
飛行実験成功の偉業をたたえて、毎年催される市をあげての行事。
ゴム動力プロペラ機・忠八考案の烏型模型飛行器など、飛ばす楽しさ素晴しさ、夢を描くパワーを実感してもらおうと、双岩スポーツパークをメイン会場に毎年4月29日に開催されるオモシロ行事です。
飛行機の滞空時間を競うといった記念行事です。
ゆかりの地
■市民図書館 忠八コーナー
忠八の創意工夫、探究心に富んだ功績を広く内外に知っていただくため、市民図書館の郷土資料室(2階)の一角に、忠八コーナーを設けています。 ここには忠八の人物紹介をはじめ、自作の烏(からす)型模型飛行器(1号機)や玉虫型模型飛行器(2号機)のほか、忠八凧そして数々の表彰状を展示、その偉業に出会うことが出来ます。 また、このコーナー横には忠八が晩年過ごしていた家屋を京都府八幡市から移築復元しており、当時の忠八の想いを偲ぶことができます。
(注)文面中、飛行器とあるのは、忠八自ら命名した器であるため、自作機の紹介時においては機でなく、あえて器を使用しております。
※展示替え等のため休室することがあります。
忠八翁の晩年の住居
■生誕地
忠八は慶応2年(1866年)6月9日、八幡浜浦矢野町44番地(現八幡浜市矢野町5丁目)に、父幸蔵、母きたの間に6人兄弟の4男として生まれました。
父は海産物問屋(屋号:大二屋)を営み、大阪などへも出向く大きな商いをしていました。 12歳のとき父を亡くし家計を助けるため、測量や写真の助手など、さまざまな職につき、夜は漢学・国学・南画などを学び苦学と共に少年期を過ごしました。
その学資づくりに凧を製作、これが忠八凧と呼ばれ、よく売れたと言われております。
21歳のとき、香川県丸亀歩兵第12連隊第1大隊に看護卒として入隊、八幡浜を後にしました。
忠八生誕の地石碑
■大法寺
忠八は幼いころから何事にも興味を持ち挑戦したり研究をするなど熱心でした。得に勉学は優れており群を抜いていたのです。忠八が11歳の秋、神山(こうやま)小学校が新築落成しました。そして愛媛県学務課長が来校した記念に八幡浜付近の八ヶ村から優秀な児童が代表で参加、学術の競争試験が行われました。場所は、大門にある大法寺の大広間でした。
縁側には父兄多数が見物する中、張り出された問題を即答する形式で行われ、見事一等賞に選ばれました。
大法寺
■八幡神社
忠八の実家は大きな海産物問屋でした。幼いころ裕福な家庭に育ち、両親と兄弟の8人暮らしでした。
遊び場は、いつも目と鼻の先の八幡神社の境内、近所の子供の集まる場所となっていたのです。ある夏の日、友人と蝉(せみ)とりをしていましたが、皆んなは木に登ったり、下から蝉を追っていたのです。しかし、忠八だけは土を指で掘ったり、蝉の抜け穴を観察していたのです。幼いころから、探究心に富んだ子供でした。
八幡神社
■新川河原
忠八は12歳のとき父を亡くしました。親思いの忠八は、3人の兄がいるものの、さまざまな職につき家計を助けていました。そして凧も製作、持ち前の創意工夫を生かした凧を次から次へと作っていました。これは学資やお米代にもなっていました。
凧はよくあがり、それを求める人で製作が間に合わないまでに売れていました。この凧が出来るたびに、実家から200メートルほど離れた明治橋近くの新川河原へ行っては凧をあげ調子を見ていたのです。近所の人達は『忠八がまた凧をあげている』といい見物に訪れる人も多く、皆んなが忠八凧と呼んでいました。
新川河原
■斐光園(ひこうえん)
斐光園は二宮忠八翁が少年期を過ごしたふるさとに想いをはせ造られた唯一のゆかりの地です。公園は私財で田、畑を買収し(2,600平方メートル)、10数年の歳月を経て、大正11年に開設しました。そして飛行機考案後30年目にして世に認められ、大正15年、帝国飛行協会からの有功賞と『斐々有光』の書が贈られました。この機に『斐光園』と命名、記念碑が建立されました。
また、今ある桜やつつじ、楓などは、翁自ら苗木を京都から送り植えられたものです。このほか、公園の中には翁が命名した“烏が丘”や“玉虫坂”のほか、公園に通じる“飛行道路”そして“羽衣橋”があり、空にかける情熱が今なお伝わってきます。
斐光園(ひこうえん)
発明への衝動
●天女・飛天
三保の松原の羽衣伝説やかぐや姫、日本各地の社寺仏閣に
●傘飛び義賊
屋根から傘を持って飛び下りた義賊の話。忠八も橋の上から傘を持って飛び下りる実験をしました。
●凧に乗った盗賊
名古屋城の金のシャチホコを凧で盗みに行った盗賊の話など。
凧には小さな頃から興味がありました。
●忍者
忍術の話の中にも空を飛ぶヒントを探しました。
●天狗
天狗は、いったいどのくらいの翼で空を飛んだのか…。
●その他
児雷也、久米の仙人など、空を飛ぶ話や空を飛ぶものたちは、いつも忠八の夢の原動力でした。