記事番号: 1-271
公開日 2014年09月16日
蘇る平家落人 伝説の里「平家谷」
宮内川上流の「平家谷」一帯は、平家落人たちの哀しい伝説が残る場所。渓谷と自然林がことさらに美しく、今では憩いとやすらぎの場として生まれ変わり、人々に親しまれています。
壇ノ浦の戦い(1185)に敗れた平家の落人たちが隠れ住んだと伝えられている平家谷と鼓尾、枇杷谷、両家地区には、「平家落人伝説」が残されています。現在平家谷は、森林公園やダム湖、遊歩道が整備され、八幡浜市を代表する観光地となっています。
桜やツツジ、あじさいの花が咲き乱れる春、瑞々しい緑と木漏れ日が心地よい夏、紅葉が美しく映える秋。人の足が遠のく冬でさえ、水仙と梅の花が咲きそろい、清閑とした雰囲気に浸ることができます。特に夏場のシーズン中は、マス釣りやマスの塩焼きが楽しめるほか、渓谷の清流を利用した「そうめん流し」が夏の風物詩となり、観光客の人気を集めています。
平家谷の由来
文治元年(1185)長門の国壇の浦(現在の山口県下関市)の源平の戦に全敗した平家一族が瀬戸内海を東西南北に落ちのびていきました。そのうち、平有盛系一族8人は三崎半島の瀬戸内海沿いに流れつき良き場所を求めて逃げ落ちた場所が、現在の平家谷であるとされています。
その当時、この地は昼夜の区別がつかないほどの入らず山であり、彼らは此処へ身を隠して百姓になりました。その後、東・西へ見張所を造り毎日見張りをしながら500m位下の現在のハザマ谷の荒地を毎日開墾して3年の月日がたったある日、見張人が白サギ鳥が海岸近くに群れ飛ぶ様を敵の白旗と見誤り、今敵らしい白旗が海岸の方より押し寄せて来ると皆に知らせました。一同は、逃れる術もなく、捕らえられて憂目を見るよりはと相談の結果、平家の子孫を跡へ残したいと話し合い、2人を残して6人の者は、ハザマ谷の田の中で切腹してしまいました。
残された2人は、6人の死体を平家谷の入らずの森の岩穴へ埋め、その後は両家部落で生き続けました。そして、平家谷へは一切近づけなくなり両家部落の方々が切腹された方々の霊を慰める為、旧暦の11月初申の日に部落中が集まり、毎年田で取れた米で酒を造りお祭りをすることにし、お祭りの日には、弓の稽古、神楽、その他の行事を行うようになりました。しかし明治34年頃、家庭で酒を造る事が禁止されこのお祭もなくなってしまいました。
その他、6人が切腹したハザマ谷には、大正10年頃まで石むろが築かれ自害の場所の印が残されていました。また、平家谷及びハザマ谷は明治の中頃まで女人は一切近づく事が出来ず、白い物は敵源氏の旗示であるので身につけず、平家の子孫は正月にも白餅をつくことも出来ませんでした。代わりに12月末には赤飯を造り正月15日まではその赤飯に毎日お茶をかけて食べていましたが、この習慣は大正10年頃にはなくなりました。
そして、現在の両家部落及び枇杷谷部落又は鼓尾部落は一族が半島へ流れついて平家谷まで逃げのびる途中弱りはて、音楽が好きであった一族のものが鼓尾部落へは「つづみ」を捨て、枇杷谷部落へは「びわ」を捨て、残された2人が部落へ住みつく事になり両家部落の名前がついたといわれています。