四国初の紡績会社
宇和紡績会社は、1887(明治20)年、四国地方初の紡績業として川之石に設立しました。最初は紡績機械二千余錘の小さな工場でしたが、その後、一万余錘の工場にまで発展しました。その設立は、保内町の商工業発展の基礎づくりに大きな功績を残すものとなりました。
会社創立のきっかけは、中心となった兵頭昌隆氏が、大阪で川之石出身の矢野貞興から、外糸輸入の模様や紡績業の有望さについて聞かされると共に、会社創立を勧められたことにあったと言われています。
第一考課状によると「明治二十二年十一月五日本社創立届及創立趣意書ヲ愛媛県庁ヘ差出シ聞置カル」とある。届出書提出と同時に認可されたものと思われます。
発起人は21名で、その中から川之石及び八幡浜より、各5名の委員が選出されました。その委員会で工場設置について協議した結果、川之石に工場を設置することが決定されました。
1887(明治20)年10月25日、発起人総会を開き、本社仮事務所を川之石3番耕地10番地に置くことを決定すると共に、兵頭昌隆・浅井記博・上田京平・宇都宮荘十郎・高橋傳吾・清水石次郎・矢野源四郎・兵頭吉蔵・菊池清治・清水範蔵の10名の創立委員を選出されました。
1888(明治21)年6月8日、川之石龍潭寺で株主総会を開き、定款を議決し、資本金を12万円として、第1回株金募集額を7万円としました。また、紡績機械2千錘を購入して営業を始めることを決めています。同時に取締役として、兵頭吉蔵・上田京平・兵頭昌隆・宇都宮荘十郎・辻吉敬・矢野小十郎・鎌田傳治・清水範蔵の8名を選出しました。
同年6月10日の取締役会で、社長に兵頭吉蔵、常務取締役に兵頭昌隆を推挙し、事業開始後(明治23年) 兵頭昌隆が社長に就任しています。
四国で初めての電灯
明治は照明の夜明けでした。従来の行灯やランプの時代から文明の光がともることになりました。保内地域では自家発電の歴史は古い。1889(明治22)年12月18日、川之石の宇和紡績会社において、工学士阪内虎治の監督をもって、電灯機械据付けを完了し同日点灯している。電灯は米国エジソン殷煥電灯16燭光120個でした。(『明治23年上半季 第1回半季実際考課状』「宇和紡績会社」)これは、四国最初の電灯であり人々を驚かせました。
殷煥電灯(一名白熱電燈)は、ナスビ型のガラス球の内に炭素よりできた細線(いとすじ)あり。その球内の空気を精巧に取り除いたもので、電気が通れば光を放つ仕掛けである。その炭細線の寿命は600時間より1,000時間、長きは毎日6時間ずつ点火しておよそ300日保つ。(『電気燈案内附電気力之事』「大日本有限責任東京電燈会社」)
愛媛で初めての銀行
政府は、1872(明治5)年11月に国立銀行条例を公布しました。これより、東京・大阪・新潟・横浜の各都市において国立銀行が創設されました。1876(明治9)年8月に改正国立銀行条例を公布しました。これは銀行にとり有利な改正で、金禄公債を所持する士族に奨励したので、各地に国立銀行設立の機運が生まれました。
愛媛県においてもこの改正条例に基づき、1878(明治11)年1月9日には、西宇和郡川之石浦(現保内町川之石)に第二十九国立銀行が設立されました。これが、県下における最初の銀行です。同年9月14日には、温泉郡紙屋町(現松山市内)に第五十二国立銀行が創設されました。遅れて1879(明治12)年3月14日、新居郡東町(現西条市)に第百四十一国立銀行が設立されましたが、国立銀行条例に基づく銀行の設立は以後みられませんでした。この三国立銀行は、一般預金業務以外に、今日の日本銀行が行っている銀行券発行業務をも兼ねていたことにその特色がありました。
当時、保内地方はハゼの産地であり、鉱物資源に恵まれ、殖産事業への関心をもつ富豪も多く、川之石雨井には帆船を持つ者が多く、県内の交易よりも海路大阪を結んで交通が開けていました。この帆船は長崎・宮崎の米を大阪に運んだり、各地の特産物を交易したりしていたので、航海・商業発展の根源ともいえます。外来の刺激も多く、地元民にも進取の気性がみられました。
また、ハゼの交易のために早くから金融機関「ろう座」を開設し、金融は豊かでした。このころ、伊達宇和島旧藩主が帰郷して、藩政時代に開かせていた「融通会所」を母体にして国立銀行設立の話を持ち込み、宇和島の有志に諮ったが、まとまらず、ついにろう座の有志に譲って川之石に国立銀行の設立をみました。宇和島・八幡浜に銀行ができなくて、川之石にできたのはこういう理由からです。南予は比較的に大きな産業もなかったので、利殖という点については割合関心が高く、その上、東予や中予と違って山1つ越さねば、次の都会にでられないという地理的条件が作用して、小さな銀行がたくさんできました。若干の消長はありましたが倒産する銀行はありませんでした。